No.12 東京学芸大学:平成29年教育学部A類国語選修、B類国語専対象推薦入試問題模範解答

1.筆者の考え(400字以内)

 詩とは、そのまま味わうものである。今日の国語の授業では、教科書が念入りに作られている。これらは子ども向けではなく、教師に与えられるべきものだ。これらは子どもたちがもつ独自の感受性や能動性を先取りする押しつけがましいものだ。また、教師自身の個性的な解説の場さえ奪ってしまう。これでは授業は魅力のないものとなる。自分が教師ならば、自分が愛した詩から受けた霊感のようなものを出発点として話すだろう。自分が愛するものしか、人というものは他人に伝えるべきとびきりの解説ができないのである。学校教育の場で詩は教えられるかどうかは一概には言えない。教師と子どもの巡り合わせもある。子どもたちの中にも、詩に関して直観的に感じられる子もいればそうでない子もいる。大多数の子はその中間にある。詩の教え方には答えが見えないが、当然だ。なぜなら、万人に共通する教え方などなく、教師各々が自分なりの方法を探究する他ないからだ。

(400字)

 

2.自分の考え(800字以内)

 筆者が述べているように、詩には特定の指導法はない。なぜなら、指導する対象である子どもたちが、どのように詩を捉えるかは千差万別だからである。それでは、詩の指導はどのように行ったら良いのだろうか。私の考えを述べる。

 

 私が受けた国語の授業を振り返ると、印象的なものは次のような授業である。「折々のうた」と題されたプリントに、様々な読み手の詩や短歌や俳句が書かれているものを渡された。そして、当時の教師はそれについて解説するでもなく、自分が思うところをぽつりぽつりと語っていくのであった。その当時私は「折々のうた」がどういうものか知らなかったし、そのプリントに載っている作品も何とはなしに眺めていた。

 

 しかし、今思えばこれはその教師なりの「とびきりの解説」であり指導だったのだろう。というのは、この指導は、授業を放棄するのではなく、子どもたちに「考えさせる」指導であったと思うからだ。筆者が述べるように、確かに子どもたちの間では、善い悪いという話ではなく、詩などへの感受性には差がある。それでも、子どもそれぞれに、「考える」という行為そのものを促す指導は、私は良い指導であったと考える。詩や俳句といったものは、それを諳んじたところで直接何かの役に立つわけではない。しかし、自分が受け取ったものについて、程度の差こそあれ考え、頭の中で思考を巡らすことはいつでも必要なことであろう。それが未来につながるのだ。

 

 そのときその瞬間に役に立つわけでもなく、いつになれば役に立つかもわからないのが、詩の指導なのかもしれない。それでも、先哲の言葉を自分の中に蓄積し、醸成し、いつの日か花を咲かせるときが来るかもしれない。先に述べた授業をした教師は、今思えばそういったことを目指していたのかもしれない。自発的な思考を促し、各々が自由に言葉の大海原につかる経験をしてもらえるような指導、そういった詩の指導を行ったらよいと私は考える。

(800字)