No.58 東京大学2005年度後期日程論文Ⅱ(文科一類)第1問小論文模範解答例

今回も東大の後期日程の小論文の模範解答例を書いてみました。現在は東大は後期日程を廃止していますが、現代にも通じるテーマだったので扱いました。一言でいえば「全体主義と個人主義の相克」といったところでしょうか。個人が権利を主張しすぎると、社会全体のことを顧みなくなるのではないか、という考え方は日本国憲法制定時からあったようです。それについて考えてみました。著作権の関係で課題文は掲載できないことをお断りしておきます。

次の文章は、日本の代表的な憲法学者であった宮沢俊義が「憲法改正と家族制度」と題して1954年に書いたものである。そこで述べられている「家」をめぐっての考え方の対立は、何に由来していると筆者は考えていますか。また、あなたの見るところ、この対立は、今日の日本社会においてどのような状況にあると思いますか。具体的な例を挙げながら論じなさい。(解答は1200字以内とし、句読点も1字として数える。)

(課題文は省略)

筆者は、「家」をめぐっての考えの対立は、民主主義が要請する個人主義をどのように捉えるかということに由来すると考えている。すなわち、個人主義を、民主主義の根幹をなすものと捉えるか、個々人が勝手気ままに自由を謳歌することを保障するだけのものと捉えるかが対立している。この対立は、今日の日本社会の中でどのような状況にあるか。私の考えを述べる。
個人主義の捉え方から生じる対立は、日本が国家としてどのような針路を歩むべきかという議論が迷走していることにより、激しさを増している。日本社会の成熟に伴い、政治家や官僚組織が国民を一つの方向に向けさせることができなくなっている。個人主義は、国民が単一の目標に向かうことができないことの原因として挙げられることすらある。これまでは、戦後の復興期から高度経済成長期に至るまで、経済的な発展が日本という国家の目標だった。誰もが豊かな生活を夢見ており、自分やその家族が便利なものに囲まれて生きることを目指していた。このような状況では、政府や官僚組織が国民を一つの方向に向かせるのはたやすい。経済発展を旗印にすべての政策を実施すれば事足りた。しかし、今はそうではない。物質的な豊かさが飽和状態になった社会において、誰もが他の豊かさを追い求めるようになった。自らの趣味嗜好や個人的な選好に基づいた将来設計が個々人でなされている。経済を大目標に置くだけでよかった時代は終わった。このような状況下では、個人の意思が散らばっていることが社会に直接に現れる。例えば、国政選挙においても、ひとつの政党が大多数の国民の声を代表することができていないことが挙げられる。単一政党による政治運営は困難になり、連立内閣が常態化している。これは既存の政党が多様化する国民の欲求に満足に答えることができていないことの証左である。国家としての目標を定めることもままならなくなり、進むべき道を見いだせていないのが現状だ。政治の停滞が起こっているのは個人主義が行き過ぎたためだと訴える声も少なくなく、個人主義をどう捉えるかの対立が先鋭化している。対立が激しくなっているのが日本社会の状況だ。確かに、個々人が自分の権利を声高に叫ぶだけの社会では、社会全体の方向性は見えてこないだろう。しかし、個人を基本的人権の基礎的単位として尊重するからこそ社会は成立するはずだ。近代市民社会は、前近代に見られた権力の圧政から個人を解放する営みの中で生まれたものだ。仮に社会の共通の善というものを設定し、それにより個人の権利を圧殺する社会になれば、それは全体主義に他ならない。全体主義社会において我々は人としての尊厳を奪われる恐れがあるから、全体主義を認めてはならない。個人を基にした民主主義社会が希求されるべきである。そして、権利を抑圧する方向ではなく、法の下に権利と権利との調整を行うのが、社会としてあるべき姿だと考える。
(1200字)