No.65 神田外国語大学アジア言語学科2017年度小論文模範解答例と解説

神田外国語大学の問題です。論題はこちらです。

「ことば」は時代とともに変化する。「来られる」→「来れる」、「見られる」→「見れる」のような「ら抜き」現象がその一例であるが、これを「間違ったことば」ととらえるか、「ことばの進化」ととらえるか、様々な意見がある。このような、時代にともなうことばの変化について、あなたはどう考えるか、具体的に説明しなさい。(800~1000 字)
('17神田外国語大-アジア言語学科-
インドネシア語専攻・ベトナム語専攻・タイ語専攻)

「ら抜き」現象は、ニュースなどでもよく取り上げられるテーマですので、なじみがある方も多いのではないでしょうか。一見すると書きやすそうな論題です。ただ、問題文を注意深く読まないと、解答の方向性を誤る危険性があるため、注意が必要です。今回の留意点は次の点です。

《留意点》
①問われているのは「時代にともなうことばの変化」についての自分の考えであること
②問題文にある「ら抜き」現象は、「ことばの変化」の具体例のひとつに過ぎないこと
③答えるべきは、「ら抜き」現象が「間違ったことば」か「ことばの進化」か、という二者択一ではないこと

①問われているのは「時代にともなうことばの変化」についての自分の考えであること

問題文を精密に分析します。”「ことば」は時代とともに変化する”はこの問題における「前提」です。このことは所与のものとして扱わないと、問題の趣旨と違うことを書くことになってしまいます。たとえば、「ことばはそもそも時代によって変化しない」という論旨はかなり危険だと思われます。問題文の最後を見ると、”このような、時代にともなうことばの変化について、あなたはどう考えるか、具体的に説明しなさい。”とあります。ここから、この問題が問うているのは、「時代にともなうことばの変化」についてどう考えるか、ということであるとわかります。

②問題文にある「ら抜き」現象は、「ことばの変化」の具体例のひとつに過ぎないこと

問題文に「ら抜き」現象が取り上げられていますが、これは「ことばの変化」の「一例」に過ぎないことは明らかです。問題文に”…「ら抜き」現象がその一例であるが…”とあるからです。したがって、この問題に解答するにあたっては、「ら抜き」現象に拘泥してはいけません。①で検討した通り、この問題はことばの変化に対する意見を述べるものです。「ら抜き」現象だけを論じてしまうと、「木を見て森を見ず」のような現象になり、全体像が見えていないと判断されるおそれがあります。

③答えるべきは、「ら抜き」現象が「間違ったことば」か「ことばの進化」か、という二者択一ではないこと

ここまで検討したように、この問題は「ら抜き」現象について述べるものではありません。したがって、「ら抜き」現象が「間違ったことば」か「ことばの進化」か、という二者択一を求めている問題でもありません。問題文に“…様々な意見がある。”とあることからもわかるように、間違っているか、進化か、といったものは様々な意見の一部に過ぎません。したがって、解答者としては、①で述べたように、「時代にともなうことばの変化」について、「ことば」全体を俯瞰して論じる必要があるでしょう。この問題は、言語を学ぼうとする受験生の、言語に対する見方を問うている問題だと言うことができます。

検討が長くなりました。それでは、どうぞ。


「ことば」は時代とともに変化する。「来られる」→「来れる」、「見られる」→「見れる」のような「ら抜き」現象がその一例であるが、これを「間違ったことば」ととらえるか、「ことばの進化」ととらえるか、様々な意見がある。このような、時代にともなうことばの変化について、あなたはどう考えるか、具体的に説明しなさい。(800~1000 字)

解答例
 時代が変わればことばが変化するが、「あるべきことば」は存在せず、ことばそのものが変容しながら必然的に存在し続けるのだと考える。

 「間違った言葉遣い」と言われることがあるが、「間違った」と言うには「間違っていないことば」、すなわち「正しいことば」が存在することが前提であるはずだ。これはことばに対して決定権をもつ権威的なものが存在することを意味する。なぜなら、「正しいことば」が存在するのならば、どういったことばが「正しい」かを決める主体が存在しなければならないからだ。だが、ことばの正しさを決定する主体は存在しない。ことばの正しさを決める主体が存在するのならば、ことばは固定され、時代によって漸進的に変化することはあり得ないし、実際にそういった主体は現実社会に存在しないことが明らかだからだ。したがって、「間違った言葉遣い」は本来的に存在しない。

 確かに、ある一定のことばの使い方が不自然だったり適切でなかったりするということはあり得る。しかし、これは特定の組織や集団の中で暗黙裡に了解されているものだ。たとえば、私たちが心の内面でことばを用いて思考する際に、そのことばが間違っているか否かを気にすることはない。ことばの使い方の「正しさ」には、その組織集団内におけるルールが適用されるにすぎない。ことばは、相手に伝達する道具として用いられる限りにおいてのみその運用の仕方の適否が判断されるのだ。

 このように、ことばに「正しさ」は原理的に存在しないのだから、ことばはこうあるべきだという「あるべきことば」が存在するわけではない。そして、ことばが変化していくのは、道具としてのことばが他者を前提とする以上、その他者に合わせる形で変容していくからだ。ことばを伝える対象としての他者自身が、それまでに培ってきたことばを有している。ことばを相互に伝達するにあたり、当事者間で用いることばには多少なりとも懸隔があるのは当然だ。その隔たりを埋めるために、ことばは常に変わる必要性に迫られる。そうしなければ意思や情報の伝達が困難になるからだ。これがあらゆる単位のことばのやりとりにおいて繰り返されるがゆえに、時代にともないことばは変化するのだ。

 つまり、ことばには唯一絶対の「正しさ」が存在しえないから、絶対的な「間違い」は存在しない。そして、他者への伝達の手段として常に変化を求められるものだからこそ変容を遂げ続けるのだ。
(1000字)