小論ラボ主宰の菊池と申します。
このページでは、私が主宰している予備校「小論ラボ」を設立し今に至るまでの経緯をご紹介して、少しでも私の教育理念や人間性が伝われば良いなと思っています。
長いご紹介にはなりますが、最後までお読みいただければ幸いです。
大学生までは、いわゆる”普通”の学生だった!?
まずは私のバックグラウンドからお話ししましょう。
福岡県福岡市出身
公立中学校から福岡県立修猷館高等学校に入学
高校卒業後、早稲田大学法学部入学
福岡のまあまあな都市部で生まれ、地元の伝統ある進学校に入学後、大学進学のために上京、とここまではそれなりによくある話だと思います。
大学入学後から話を進めていきたいと思います。
早稲田大学では、法学部で法律を学ぶとともに、「早稲田祭」という学園祭の運営スタッフをしていました。要は「学祭の運営委員」です。運営スタッフには500人以上が属しており、一つの大きな組織体でした。大隈講堂の前に建てる特設ステージの担当になっていました。ステージの様子はコチラ↓


こういう企画の裏方として動いていたことになります。私は高校でも文化祭の運営委員会をしていたこともあり、自分が裏方となって、何かを回していくことが好きなんだなあ、と思う次第です。
就活で、人生最初の挫折が…
さて、楽しい楽しい学園祭の運営も、3年生で終わります。
そして待っていたのは、「就活」の二文字でした。
この頃(2010年)はリーマンショック後の不景気で、就職戦線がかなり厳しい年代でした。この状況に対して学生は何を考えたか。
「就活とか余裕でしょ?」
学生時代に力を注いだものが大きすぎるが故の自信過剰でした。「自分は3年間大きな学園祭に取り組んだのだから、誰かが自分を認めてくれるはず!」と考えていました。
余裕をかましていた学生だった私は社会の洗礼を浴びることになります。
渾身の(と思っているだけの)エントリーシートは通らない。
かろうじて面接に進んでも一次面接落ち。
減る選択肢、焦る私。
結果的に、もう受けるところがない。
私は文字通り夢に破れ、再起をかけます。
「公務員になろう」
私は近親者に公務員がいることもあって、なじみがある職業でもありました。大学に残り、公務員試験にチャレンジすることにするのです。
公務員試験の勉強は順調でした。今までしてきた大学入試までの勉強法を応用すればいいので、特段難しいことはありません。
そして迎えた公務員試験の筆記試験(早いな)。複数の地方自治体を受けました。結果はすべて合格でした。
しかし、公務員試験にも面接試験があります。就活で痛い目を見ている私にとっては鬼門でした。公務員を目指す友人と一緒に「模擬面接」を重ねました。
「あなたがこの自治体で成し遂げたいことは?」
「なぜそれを成し遂げたいのか?」
「あなたの経験からそれが言えるか?」
こういった質問に対応できるように万全の準備をしました。何回も何回も練習をして、社会人の方にも見てもらい、受験する自治体の現役職員から話を聞いてリサーチをしました。
結果は、一次面接はすべて合格でした。
この後、最終面接に進みます。このときも練習は欠かしませんでした。準備万端で臨んだ最終面接。結果 は
すべて不合格
でした。
このときばかりは泣きました。最初は結果を受け止めることができず、だんだん実感となってきて、「自分には公務員になる資格はないのか」と感じられ、家に引きこもって泣きました。
大学5年の9月、風が冷たくなってくる頃のことです。
もうこれ以上大学に残れませんから、再起をかけて必死になります。
秋ごろだったので、大企業の求人はクローズしています。藁にもすがる思いで、何かのきっかけで知った「東京都新卒応援ハローワーク」に出向きます。
そこで担当員のAさんからいただいたアドバイスが、私を救うことになります。

菊池くん、大学に直接来ている求人見てる?優良企業も載っているよ

そうなんですか!!!
それから大学の求人票をチェックし、とある電機メーカー関連企業を見つけ、応募します。
徹底的に自己分析をし、面接にも耐えてきた経験が、ここで活かされます。
結果は採用でした。
このとき、X(旧Twitter)に内定したことを書き込むと、友人のフォロワーが沸き返り、その後総出で就職祝いの宴をしたのはいい思い出です。
社会人生活がスタートするも…
ついに入社します。具体的には守秘義務があるので書けませんが、事務総合職として職務にあたることになります。先輩や上司も優しく、こじんまりとして良い職場だったと今でも思っています。
しかし、仕事をこなすにつれ、だんだん疑問が沸き上がります。
「なぜ自分はこの仕事をしているのだろう?」
仕事は責任も伴うやりがいがあるものでした。周りも自分を評価してくれる良い環境でした。
それでも、なぜか、わからなくなったのです。
この仕事は確かに社会的に重要だけど、自分には何か他にやれることがあるのではないだろうか。
これは「若手社員ブルー」のようなものですが、このときから私は会社の外に目を向けることになります。
ネットで検索したものの、社会人サークルとか、ふんわりしたものは自分に合ってなさそうと感じました。自分は確かな目標がないと動けない性格なのだと学び始めていました。
検索を続けるうちに見つけたのが、「学習支援ボランティア」でした。
都内で、経済的に困難な状況のため、塾や予備校に通えない高校生に勉強を教えるボランティアでした。
勉強は自分もしてきたし、教えられそう、そう思って、まずは参加してみることにしました。
教育の場に踏み入れて気づいたこと
そこにいた生徒に、印象的な生徒がいました。BさんとCくんだとしましょう。
都内の公立高校に通う3年生、つまり受験生でした。私はこの二人の指導を担当することになりました。
社会人とはいえ、教えることについてはアマチュアの段階でしたから、手探りで勉強を教えることになります。
もちろん受験生ですから、ボランティアとは言え妥協は許されません。
会社から帰ってから赤本を研究し、それを会社が休みの週末に生徒に説明するのが習慣となりました。
こうしていく中で、私はあることに気づきます。
「教えるのって、楽しい!」
自分が今まで勉強したことをかみ砕いて説明し、それが相手に伝わったときの爽快感がたまらなかったのです。
もちろん伝わらないこともあり、どうしたら伝わるか、ということを考えながら次の週に説明する毎日でした。
ボランティアが、自分の中ではほぼ仕事のようになっていました。
受験生を教える中で、Bさんはぐんぐん成長していきました。
最初にセンター試験を解いてみたときは200点満点中40点だったのが、3か月で120点を超えるようになりました。
Bさんの単語帳は付箋と書き込みだらけで、もはや原型をとどめてなかったのをよく覚えています。
一方、Cくんは低空飛行で、過去問演習もおざなり。
毎回励ましても、どこ吹く風でした。大丈夫だろうか…。そう思っていた矢先、Cくんから相談とのこと。
Cくんは口を開き、「実は浪人すればいいと思っていました。でもそんなメンタルが僕にはないと気づきました。でも私立の試験も終わっているし…どうすればいいでしょうか…」と涙を流しながら話していました。2
月の冷たい風が暖かくなる、3月の頃でした。すぐに私はその時期にも募集している大学を紹介し、その大学を受けることになります。
結果的に、BさんもCくんも、納得のいく進学先を選び、合格することができました。このとき私は思ったのです。
教えることには、「勉強を教えること」以上のことがある。
それで他の人を助けることもできる。
これを自分の仕事にしたい。
会社を退職し、本格的に講師職へ
これから数か月後、私は会社を辞め、「教えること」を仕事にすべく動いていくことになります。
学習支援ボランティアを通して、「教えること」に目覚めた私は、これを仕事にしようと思い始めます。
とはいえ、「好きなことを仕事にする」のは難しいことだとはわかっていました。
「好きだからって、それを仕事にできるのか」
「それで食べていけるのか」
「好きなことが途中で変わったらどうするのか」
そんな疑問や迷いが絶えずつきまとっていました。
思い悩んでいた頃、大学の先輩にあたるDさんと出会い、自分が悩んでいることを打ち明けます。
Dさんは教育系の会社をしている方でした。

菊池くんは、好きなことを仕事に、というけど、それはいつか嫌いになるかもしれないね。好きなことを仕事にするという視点ではなく、得意なことを仕事にする、という視点ではどうかな。得意ってことは周りから評価されているってことだし、得意なことは嫌いにならないよ
その発想はなかった、とはこのことです。
確かに好きなこと、たとえば音楽とか芸術とか運動とか、というのは、いつか嫌いになることもある。
けれども、「得意なこと」は、やればやるほど磨かれるから、「嫌い」にはならない。
そして、自分は「教えること」は他のことと比べて得意そうだ。これなら、仕事にできる気がする。
今思えば、それはそれで浅はかなのですが、我が意を得たり、と思い始めます。
このまま今の会社でくすぶっているより、自分の得意なことを研ぎ澄ましてやっていこう。
そして、若きサラリーマンだった私は会社を退職し、まずは非常勤講師として予備校に勤めようと動き出します。
時は3月。桜のつぼみがふくらみ始めている頃でした。
学習支援ボランティアを通じて英語の大学受験指導をしていたので、「英語科講師」として身を立てようと、都内にある予備校に履歴書を次々と送っていきます。(※補足しておくと、予備校の講師は正社員であることは概して少なく、非常勤のアルバイトであることが多いです。)
このとき、テレビなどのメディアで予備校講師がどんどん取り上げられてくる頃で、それにも憧れていました。
「成功すればどんどん活躍の場が増えて青天井じゃん!」などと夢想していました。
結果は、ひたすら不合格。
当たり前です。それまで講師としてのアルバイト経験もないのに、予備校でいきなり講師をさせてくれるところは稀でした。
そのころの私は、サラリーマン時代に住んでいた東京の神楽坂から引っ越し、阿佐ヶ谷の古いアパートに住んでいました。
隣のおっちゃんのいびきが常に聞こえるようなアパートでした。
それでも諦めるわけにはいきませんので、応募し続けます。
一つだけ、採用試験を受けに来てくださいと言ってくれる現役生向け予備校がありました。
そこに出向き、筆記試験と模擬授業を行い、なんとか「採用」をいただくことになります。
華々しくはない予備校講師デビューでした。
私は埼玉の校舎に配属になり、東京の阿佐ヶ谷から新宿を経て、小田急線で埼玉に通う生活になりました。
そこで待っていたのは、研修の毎日でした。
服務規程などのバイトとしての研修はそこそこに、講師として授業の研修をすることになります。
ホワイトボードに書くペンの持ち方、ホワイトボードの使い方、生徒の前に立つときの姿勢など、基礎の基礎から教えてもらいました。
予備校全体の研修もあり、そこではひとつの学習項目について、若手講師が模擬授業を行いました。
「模擬授業」とは、生徒がいない教室で、他の先生方を前にして授業を行うことです。
これが怖い。眼光鋭いベテランの先生方を前にして、ひよっこが授業するわけですから。
模擬授業が終われば、当然ダメ出しの嵐です。
姿勢がなってない、板書内容を覚えていない、説明の順序がおかしい…などなど、多くのアドバイスをいただきました。
このときはつらく感じましたが、この経験は今でも、授業する際の礎となっています。この一連の研修がなければ、今の講師としての私はなかったでしょう。
とはいえ、同時に迷いも感じ始めます。
ある日のこと。その予備校で他の先生の授業見学をしていた折、「この先生すごい!」と感動する授業を目の当たりにしました。
休憩時間にさっそくその先生にお礼を言いに行くと、「ぼくなんてまだまだです。E先生がぼくにとって神のような存在です」とのこと。
偶然近くにE先生がいらしたので、挨拶をしにいくと、「ぼくはしがない非常勤ですから。ぼくよりすごい先生はいっぱいいます」とE先生がこともなげにおっしゃっていました。
このとき、駆け出しの予備校講師である私は衝撃を受けました。
「こんな世界で戦うのか…厳しい世界だ」
現実を見た瞬間でした。
予備校講師の世界も、当初考えていたような甘い世界ではなかったのです。
若手講師には当然ですが、授業をどんどん入れてもらえるわけではありません。
収入も激減です。ああどうしようと思っていた折、会社員時代に参加していた学習ボランティアを運営していたNPOの方から連絡がきます。
「私くん、地元福岡だったよね?新しく福岡で学習支援事業をするんだけど、手伝ってくれないかな?」
このときは少し戸惑いましたが、大都会東京の迷える子羊だった私は、この申し出を受け、地元である福岡に戻ることにします。予備校講師デビューをしてしばらくたった頃でした。
遂に福岡で自分の塾を立ち上げる
予備校の方にはお世話になったお礼をし、やるべき仕事はやったうえで福岡に帰ることになります。
蝉がそろそろ鳴くのをやめていく、秋の始まりの頃のことです。
地元に戻って、学習支援事業に携わりながらの再スタートです。
その事業では中学生に向けての学習支援を行っていました。
とはいえ、正規職員ではありませんので、福岡のとある予備校で非常勤講師として働くことにします。
そこでとある生徒Eくんに出会うことになります。
Eくんは浪人生。地元の高校を卒業し、その予備校に通っていました。
私は英語の講師としてその予備校に在籍していましたので、英語の相談を受けることになります。
難関私大を目指しているものの、センター試験では200点満点中120点程度と奮いません。
そこで、私は「英文を音読しよう」とアドバイスを行います。
Eくんは最初は「なんでそんな面倒なことするんですか」という姿勢。それでも、何度も何度も「音読」の必要性を説くにつれ、受け入れてくれるようになります。
家で私が提案したように20回も30回もひとつの英文を音読するようになります。その結果、2か月で模擬試験の英語の偏差値が10ポイント上がりました。このとき、Eくんは私にこう言いました。
「私先生、こんな指導ができるのなら、先生が塾を作った方が早いですよ!」
いやいやそんな…と返しつつ、このとき、「自分で塾を立ち上げる」という選択肢が自分の中に生まれました。
自分は教えることで誰かに何かを提供できる。
教えることを通じて、生徒の将来を広げることができる。
それを自分の手でイチからできるのなら、塾を開くのもありかもしれない。
そういった思いを抱きつつも、さすがにお金を銀行から借りてテナントを用意して、ということはできるはずもありません。
塾を開こうという気持ちが薄れかけていたとき、私はとある地元のカフェに通っていて、常連となっていました。
カフェのマスターと世間話をしていると、そのマスターから、「菊池くん先生なんでしょ?あの方も先生だよ」と、ある常連のお客さんを紹介してもらったのです。
仮にFさんとしましょう。Fさんとその場では少しお話をして、Facebookでつながり、その場をあとにします。
そしてあるときのこと。福岡の田舎に近い方に住んでいた私が、Facebookで「もう少し都会に住みたいな」と投稿したところ、そのFさんからメッセージが。
「うちに空き家あるけど、借りる?」
まさかの展開でした。そのころまでに、Fさんとはかなり親しくなっていたので、お話を聞きにいきます。空き家の場所は福岡の都心部。周りには中学校や高校もたくさんあります。そこで気づいたのです。
「この空き家で、塾ができるんじゃないか?」
私はこう直感し、Fさんにお伺いを立てます。
「この空き家で塾をしてもいいでしょうか…?」
「いいですよ」
もちろん諸々の条件があってのことでしたが、高額なテナントを借りることなく、自分の塾を設立できるようになった瞬間でした。今でもFさんには感謝してもしきれません。
ここから、私の「塾長」としての日々が始まります。
小論ラボに込める想い
さあ、いざ出陣とばかりに塾を始めたわけですが、そこには大きな壁がありました。
どうすれば多くの人が自分の塾に来てくれるのかわからなかったのです。
今までは所属していた塾の授業をすればよかったのですが、自分で塾をするには様々なことをしなければなりません。
いろいろと考えた私は、まずはチラシを作って高校の門の前で配ることにしました。
ある高校の前でチラシを配っていたのですが、ほとんどの生徒さんに無視されていきます。
100枚準備していたのが5枚もらってくれるかな…くらいの悲惨な結果でした。
ですが、そのときにも偶然の出会いがあります。同じく門の前でチラシ配りをしていた方が話しかけてくれたのです。この方をGさんとしましょう。
Gさんも個人で塾を営んでおり、すぐに意気投合しました。塾経営の先輩として様々なお話を聞くことができました。
その中で、「菊池先生は小論文ができるんだから、小論文専門の塾を作ったらどうですか?」とアドバイスをもらいます。
私自身、小論文は得意で、たまに生徒に教えていました。入試制度が変わっていく時期だったこともあり、すぐに方向転換を図ります。小論文専門予備校「小論ラボ」の誕生です。
Gさんと作戦会議を重ね、小論文専門の塾として何ができるかを考えて行く日々が続きました。
ただ、なかなかメジャーになることができません。「小論文」というもの自体がまだ知られていなかった頃だったのですね。どうしよう……と考えつつも、今度はチラシを近くのマンションに配ることにしました。何とかしたいという思いが強かったのです。
近所のマンションにチラシを入れた数日後のことです。
塾の校舎にいたら、突然呼び鈴がなりました。出てみると「〇〇新聞のものです。今度タウン誌を作るのですが、広告を掲載しませんか?創刊号なので掲載料は無料です」とのこと。
どうやら、新聞社の担当の方が、私のチラシを見て、面白そうだからタウン誌に載せたいと思ったそうです。渡りに船とはこのことです。
すぐに準備をして掲載します。それがまたしてもターニングポイントになります。
チラシを掲載してすぐにたくさんの方が電話をしてきてくれたのです。今まで閑古鳥が鳴いていた私の塾が、そのタウン誌掲載をきっかけに満杯の状態になったのです。
こうして、私の塾、「小論ラボ」から多くの合格者を輩出することになります。
この経験から学んだことは次のことです。
どんなにつらい状況でも、それを助けてくれる人たちがいる。
ただし、自分が何かを得ようとするなら、チャンスを逃してはいけない。
常にどん欲にそのチャンスを追い求め、アンテナを張り続けないといけない。
これからも、このことを忘れずに地道に努力していきたいと思っています。
